ネットの片隅で、あなたの顔は晒されている。

ごく最近、とある調査結果が発表された。デジタル社会における消費者意識に関するものだ。それによると、多くのネットユーザーが「個人情報の提供」に抵抗を感じているという。ウェブサービスやアプリを利用する際、自分や家族の情報を差し出すことに7割以上の人間がためらいを覚える、と。前年比でさらにその割合は増えているらしい。

当たり前だろう。

我々はもう知っている。この社会は、あなたの指先からこぼれ落ちる個人情報によって成り立っているのだということを。スマホをタップし、SNSに投稿し、オンラインで買い物をすれば、そこにあなたの「デジタルな足跡」が残る。性別、年齢、居住地、趣味嗜好、果ては家族構成、病歴まで、ありとあらゆる情報がデータとして収集され、分析され、そして「活用」される。

「活用」とは聞こえがいい。だが、それが果たして常に我々の幸福に繋がっているのか。

生成AIのリスクが叫ばれて久しい。フェイクニュース、ディープフェイク、ハルシネーション……。AIが作り出す「真実のような嘘」が、いとも簡単にネットを駆け巡る時代だ。そしてその基盤には、我々が「提供」した個人情報が、否応なしに利用されている。あなたの顔が、あなたの声が、あなたの嗜好が、AIの学習データとして使われ、見知らぬ誰かの手のひらで「模倣」され、悪用される可能性すらあるのだ。

情報漏洩事件は枚挙にいとまがない。企業が管理を怠り、ハッカーの餌食となる。あるいは、もっと身近なところで、ちょっとした不注意から情報が流出する。そのたびに我々は、身に覚えのない請求に怯え、迷惑メールに辟易し、最悪の場合、金銭的な被害に遭う。そして、企業は「深くお詫び申し上げます」の一言で済ませ、再発防止を誓うが、その「再発」が起きるたびに、我々の心には小さな傷が積み重なっていく。

これはもはや、個人の努力でどうにかできる問題ではない。どれだけ注意深くパスワードを設定し、怪しいメールに気をつけようとも、システムそのものが、社会の仕組みそのものが、あなたの個人情報を無防備に晒しているのだ。

考えてみれば、我々は常に「監視」されている。オンライン上の行動履歴はもちろん、防犯カメラ、顔認証システム、街中に溢れるセンサー。あなたの位置情報、購買履歴、検索ワード、友人関係……。それらはすべて、ビッグデータとして蓄積され、解析されている。そして、そのデータは、時に「便利」という名目で我々の生活を規定し、時に「安全」という名目で我々の行動を制限する。

かつて、ジョージ・オーウェルの『1984』の世界が描いた「監視社会」は、SFの空想だったはずだ。だが、今の我々の現実はどうだろう。ビッグブラザーは、見えないコードの向こうに潜み、いつでもどこでも、我々を「見て」いる。そして、その「視線」は、我々自身が差し出した個人情報によって、ますます強化されている。

この状況を放置しておいていいのか。

デジタル社会の進展は、確かに私たちの生活を豊かにした。しかし、その裏で、私たちは「自由」と引き換えに「プライバシー」を差し出しているのではないか。いや、差し出すことを半ば強制されているのではないか。

私たちは、この「見えない支配」に対して、もっと敏感にならなければならない。個人情報の保護は、単なる技術的な問題ではない。それは、私たち一人ひとりの尊厳と、民主主義社会の根幹に関わる問題なのだ。

国家や企業に、我々の個人情報を「適切に」管理する責任があるのは当然だ。だが、それ以上に、我々市民が、自身の情報がどのように扱われているのかを常に問い続け、声を上げていく必要がある。安易な「便利さ」の裏に隠された「代償」に気づき、それを是正するための行動を起こす。

そうでなければ、未来永劫、我々はネットの片隅で、いつの間にか晒されている自身の顔を、ただ見つめることしかできなくなるだろう。この問題は、私たち自身の「人間らしさ」を取り戻すための闘いでもある。