神社参詣こそ「保守本流」の要である

野党第一党・立憲民主党をめぐって一部の支持層が揺れている。今月4日、党幹部一行が三重県の伊勢神宮を参詣し、党公式Twitterが参詣の様子を投稿したのだ。

これに対し、支持者の左派がネット上で反発。「ケンカを売られた気分」「非常に恐ろしい気分」などと党を批判した。

しかし、保守本流を標榜する立憲民主党にとって、この参詣、投稿は英断であった。左派寄りのイメージを持たれていた同党にとっての、改めての「保守」宣言と言ってもよい。

保守ではない層—「反動」と「革新」—には一つの共通点がある。どちらも国の文化を大きく変えたがっていることだ。現代日本でいえば、家族制度に対する反動・革新の主張をみると、その特徴がよくわかるだろう。

こうした勢力と対決する「保守」には、国の文化の根底を守り抜くことが強く求められる。人類の進歩に懐疑的な目を向けつつ、時代にそぐわず維持することが望ましくない悪弊は取り除いていくのが彼らの役割になる。立憲民主主義を第一に掲げる同党でいえば、憲法がその判断の軸になっていくだろう。

憲法についていえば、今回の騒動では「政教分離」について言及した批判も散見された。しかし憲法20条3項に基づく制限を受けるのは「国及びその機関」であって、当然ながら政党や国会議員はその制約を受けない。

話を戻す。保守が守るべき「文化」とは何だろうか。

文化の表層的な部分は、時代の変化に伴って移ろいやすい。着目すべきは、日本文化の根底の部分である。筆者は、その根底こそが神道と皇室であると考えている。

歴史を振り返れば、今日「日本文化」と呼ばれているものはほとんど神道と皇室(それと仏教)と分けては考えられない。大陸文化流入以前のアニミズムに起源を持ち、皇室の権威と結びついた神道は、仏教と融合しながら全国で民衆の生活に深く根ざす存在となった。長らく日本国のトップの座にあった天皇も、日本史ではその政治性よりも文化的な面がクローズアップされやすい。今日でも、皇族が多くの文化的団体で名誉職を務めるなど、皇室全体で文化的活動を精力的に展開されている。

左派が目の敵にする「国家神道」は確かに反省・非難すべき日本神道史の汚点であろう。だがこれは、神道と天皇を利用し国家統治・戦争推進の道具にしようとした維新政治家やファシストの盲動に他ならない。バランス感覚のある中道の政治家やノンポリの一般市民が親しむ分には大いに結構なのだ。

日本には信教の自由があり、国・機関による宗教活動の禁止を定めた憲法もある。いよいよ数ヶ月後に控えた天皇の譲位(代替わり)に際しても、その儀式の宗教性や国費支出をめぐって議論が交わされている。しかし、政治家や天皇に「神道をやめろ」などと主張するのは、就任式の米大統領に聖書ではなく妙法蓮華経を押し付ける程度には愚かしい発想であろう。日本国民の大多数が神道の信徒であり、それは日本文化と不可分なほどに深く結びついている。反対派は、つい数日前の年越しを見て分からなかったのだろうか?

日本文化を守るべき「保守」政治家は、国家神道の復活を強く警戒しながら、文化と深く根ざした神道とともに歩み、文化興隆に尽力すべきだろう。

旧民主・民進党左派から受け継いだ支持者が立憲民主党には多い。ゆえに、そうした支持者の声が党や議員には届きやすいだろう。これに対抗する方策はただ一つ。心ある立憲支持者は「参詣支持」の声を上げなければならない。政局や政策とは関係の薄いこのような場面でこそ、政治に関わる人間の本質は現れる。