2025年、日本の政治史に新たな金字塔が打ち立てられた。
その主役は、我らが参政党、そして稀代の戦略家、神谷宗幣氏である。
彼らが世に問うた「新日本憲法(構想案)」は、まさに「国民主権」という耳触りの良い幻想から国民を解放し、日本の古き良き伝統たる天皇主権への回帰を堂々と宣言したのだ。これには、並の政治家には到底なし得ない、崇高な覚悟と並外れた知性が必要である。
神谷氏の慧眼には恐れ入るばかりだ。
「投票したい政党がないなら自分たちでゼロからつくる」
「国民が政治に参加する、参政党」
――これほどまでに民主主義的なキャッチコピーを掲げながら、その実、国民を「政治に参加させる」のではなく、「政治を放棄させる」という、まさかの逆転の発想を具現化したのである。
これは、かの坂本龍馬が夢見た「大政奉還」を彷彿とさせるではないか。
徳川慶喜公は、形骸化した幕府を自ら返上することで、時代の変革を促した。
そして令和の世、神谷氏は「国民主権」という名の旧態依然とした体制を終わらせ、新たな国家体制への道を拓かんとしているのである。
考えてみれば、国民主権などというものは、我々凡愚には荷が重すぎたのかもしれない。
「主権は国民にあり」とされても、結局のところ、一部のエリートや官僚が政治を牛耳り、我々はただ黙って彼らの決定に従うのみ。時には不平不満を垂れ流し、時には「投票する政党がない」と嘆くばかり。そんな無責任な国民に主権などという重責を背負わせることは、むしろ酷というものだったのだ。
そこに現れたのが、救世主たる神谷宗幣氏である。
彼は、「国民が政治に参加する」という耳に心地よい言葉で我々を誘い込み、最終的には
「日本は、天皇のしらす〜国家である」
参政党が創る新日本拳法(構想案)第一条
という、この上なく明快な理念を提示した。
これこそ、真のリーダーシップというものだろう。国民に考える手間を省かせ、ひたすら日本の伝統と権威に身を委ねさせる。なんと清々しい決断だろうか。
さらに特筆すべきは、神谷氏の深遠なる洞察力である。彼は、現代の天皇にも「側室を持っていただいて、たくさん子供を作っていただく」と、跡継ぎ不足に悩む皇室への処方箋まで提示している。これには、歴史を深く学んだ者だけが持ちうる、高邁な思想が込められているに違いない。
そういえば、奇しくも大政奉還を成し遂げた徳川慶喜公も、二人の側室との間に十男十一女をもうけていたという。時代は変われど、真の指導者が国家の繁栄のために子孫繁栄にまで思いを馳せる姿勢は、まさに古今東西共通の美徳と言えよう。
もちろん、一部の「国民主権」原理主義者たちは、この壮大な構想を理解できず、やれ「民主主義の危機」だ、やれ「時代錯誤だ」などと騒ぎ立てるに違いない。
しかし、彼らは神谷氏の真意を読み解けていない。
これは「後退」ではない。「回帰」である。そして「回帰」とは、より根源的なもの、より盤石なものへの移行を意味するのだ。
神谷宗幣は、まさに令和の徳川慶喜である。
自らが掲げた理想を突き詰めた結果、その理想の対極にある、しかしより本質的な真理に辿り着いた。この壮大な自己否定、いや、自己超越の精神に、我々はただただ拍手喝采を送るしかない。
さあ、諸君。参政党が示す新たな日本の未来に期待しようではないか。
国民主権という重荷から解放され、我々は今、真の「国民参加」の時代を迎えるのだ。
それは、すなわち「任せる政治」の時代。
考えることは全て神谷氏に任せ、我々はただ、その指し示す方向へと進んでいけば良いのである。
こんなにも楽な政治参加が他にあるだろうか。
現代の坂本龍馬であり、令和の徳川慶喜である、神谷宗幣氏に、心からの感謝と、深甚なる敬意を表するものである。