「インセル」は「女性蔑視主義者」ではない

去る4月24日(日本時間)、カナダ・トロントの路上でワゴン車が歩道に突っ込み、少なくとも10人が死亡、15人が負傷するテロ事件が発生した。

ワゴン車を運転していたのは、25歳男性のアレク・ミナシアン容疑者。当初はイスラーム過激派に感化された「一匹狼」型の犯行と見られていたが、事件翌日の地元警察による発表から浮かび上がったのは、大方の予想を大きく裏切る動機だった。

警察が明らかにしたのは、ミナシアン容疑者が事件直前にFacebookで公開した一通の投稿。内容は「”インセル”の反乱はもう始まっている」「すべての”チャド”と”ステイシー”らを打倒する」「最高の紳士、エリオット・ロジャー万歳!」(強調は筆者による)などと、耳慣れない言葉が並ぶ。

この投稿が広まるのとともに、この「インセル」をめぐる議論が急速に高まっている。

ニューズウィーク(日本語版)は「インセル」を「恋愛および性的なパートナーが見つからない、あるいは自身に性体験のない原因が女性にあるとする男性たち」「ミソジニスト (女性蔑視主義者)」と説明し、NHKも似たように「女性に好かれず、性体験のないことを女性のせいにするという、ゆがんだ女性蔑視の考えを持つ男性たち」であるとした。

「インセル」について取り上げる大半のマスメディアは、そうした若年男性がネット掲示板などでコミュニティを構築し、女性を敵視する暴力的な投稿を繰り返していると紹介する。容疑者の投稿にあった「チャド」「ステイシー」もそうしたコミュニティ内の隠語で、それぞれ良好な性経験を有する男女のこと、「エリオット・ロジャー」は自身の性経験の欠如と女性への嫌悪を理由に銃乱射事件を起こし、自殺したアメリカ人のことである。

前述のコミュニティに属する過激なネットユーザーらに焦点を当てるあまり、マスメディアの報道姿勢は偏向の一途をたどっている。NHKは「インセルの脅威」との見出しを記事に付けて「インセル問題への対処」の必要性を云々し、ニューズウィークは記事のタイトルで「女性蔑視主義者『インセル』のヤバすぎる主張」と煽り立てた。これらの影響を受けてか、ネット上ではロス・ドゥザットらの主張する「『女をあてがえ』論」と結びつけてこの事件を考察する者も現れた。

しかし、インセルの存在自体は今に始まった事ではない。インセル (incel) という単語は「involuntary celibates(不本意な禁欲主義者)」の略だが、この言葉の起源は20年以上前に遡る。あるカナダ人が同名のウェブサイトを立ち上げ、交流コミュニティを作ったのがそもそものきっかけとされ、現在は英語圏のネット上で広く用いられている。

インセル—不本意な禁欲主義者—は数の多少こそあれど、古今東西に存在していたし、今も存在する。ドゥザットらのいう「『女をあてがえ』論」が現実のものとならない限り、未来永劫この存在が消えることもない。そのような歴史の中にあって、突として暴力性・危険性がクローズアップされたことに、悪辣な術策が透けて見えるのは筆者だけであろうか。筆者は2016年、「非モテ」の岡焼き心理を商売の物種にしようとするメディア・広告代理店の策謀を糾弾する記事を執筆したが、日本メディアは遠くカナダの忌まわしいテロさえも、この策謀の道具にしようとしているのではないかと考えると、薄ら寒い思いがする (もっとも、インセルや一部過激派の思想は海外メディアでも問題視されているが)。

インセル—不本意な禁欲主義者—は決して女性蔑視主義者でもなければ、特定の集団の構成員でもない。インセルは遍在するし、インセルは世界的である。インセルは年齢も性別も問わない。インセルは、少なからぬ人々が逃れることのできない現象そのものである。

そして、心ある大半のインセルは、一部の過激派や差別主義者らを快く思っていない。英語圏のソーシャルサービス上では「ヘイトなきインセルたち」 (Incels without the hate) と称するフォーラムがつくられ、本稿執筆時点で2,600人を超える構成員が集っている。このフォーラムには女性も数多くおり、時には「チャド」—良好な性経験を経た男性—も現れる。そこでは人権を愛し、憎しみを望まない人々が、自身のトラウマや悩みを語り合っている。

しかし、そのような人々にスポットが当てられることはない。しばしば大衆は、凶悪事件の犯人をあえて悪魔化し、「自分は『悪魔』の奴とは違う」と考えて安心したいと願う。トロントのテロ事件における報道や世間の反応にも、インセル全体を悪魔化しようとする兆しが見え隠れしているように感じられてならない。

インセルは、自身だけでは自身がインセルであるということから逃れることができない。それゆえに、インセルは時として文化と衝突し、マジョリティとの軋轢を生み、苦悩する。しばしば忘れられがちだが、インセルは常に救いを求めているのである。社会はインセルの「脅威」を煽り立てて分断を一層深刻にしようとする妄動を厳に慎み、インセルの真の姿と一刻も早く向き合わなければならない。